女の庭
| 固定リンク
河合隼雄さんと吉本ばななさんの対談集。
ふたりの子どもの頃の話など興味深かった。吉本さんが高校3年間はよく寝ていたと言うと河合先生は「三年寝太郎」の話をする。我が家の高校生年齢のふたりの子どもたちも本当によく寝る。家にいれば寝ている。河合先生の話を聞いてすごく気が楽になった。ふたりの会話を読んでいて子どもはあまり厳しく育てちゃいけなかったんだなと反省した。もっとのんびり、ゆるく子育てをしていれば今こんなじゃなかったのかもしれない。
それから面白かったのが
吉本 いやなことなんだけれど、やらなきゃいけないというこの感じは、いったいどこからきているんですか?
河合 流行り、いまの流行りですよ。
という会話。その時代精神に合った人は調子がいいし、合っていないと生きずらい。吉本さんも納得していたけれど、私も納得。たまたまこの時代に生まれた運命。
河合先生は私の敬愛する明恵上人の夢日記も研究されているし、一度は会ってみたかった人の一人。先生に話を聞いてもらえたら、もっと肩の力を抜くことができるようになれた気がする。
| 固定リンク
幸せな子 アウシュビッツを一人で生き抜いた少年
トーマス・バーゲンソール 訳:池田礼子/渋谷節子
ユダヤ人迫害の経験から国際人権保護の専門家になった著者の自伝。
翻訳者は皇太子妃雅子さんの双子の妹さんらしい。いい年して初めてアウシュビッツ関連の本を読んだ。
著者は10歳の頃にアウシュビッツに収容されるが数々の幸運が重なり一人でその中を生き抜いていく。彼はどんな時でもお父さんが教えてくれた冷静さとお母さんの愛と強さを忘れない。そして必ず再び会えることを疑わない。どんどん状況が悪くなる中でも、保障などなにもなくてもあきらめず希望だけは捨てない。その強さに胸が打たれた。
解放された後、母親と再会し(父親は収容所で死亡)親戚を頼って一人でアメリカに渡る。自分の体験した苦しみを他の誰もが味うことがないように人権問題を勉強し、国際司法裁判所の判事になる。そのバネの強さにも敬服する。
私には想像するしかできない出来事、その中を生きていた人ひとりひとりに物語があり、そして多くの命が失われた。それを思うと胸が痛み、自分の甘っちょろさに砂をかけたくなる。世界中から虐殺や戦争がなくなる日がくることを信じることから始めよう。
| 固定リンク
芥川賞作品の「乳と卵」が読みたかったのだけれど貸出し中だったので処女小説のこの本を借りてきた。
奥歯が自分自身だと思っている歯科医院に勤める女の子の話。彼女は学校へ通っているころからいじめにあっていて、同級生だった青木くんと付き合っているという妄想の世界に生きている。
痛みは移動する、いったん自分の中に入った痛みは誰かになにかに移動させるほかない、世界の痛みをどこかにひとつに集められばいいのだけれど、それも難しい。ならば自分のところへやってきた痛みだけは他には渡さず抱えておこうと語る。
ラスト、自分自身である奥歯を抜く。治療室には母親が無歯症を心配して女の子を連れてくる。自分自身なんてたいしたもんじゃない。
大阪弁で独特の文章、短い作品だったから読み終えられたけれど長編だとちょっときつかった。
| 固定リンク
ロックで生計をたてていなくてもロックな生き方はできる。独立して生きるとは、自分の考えをもって自分を信じて自分の足で立って生きている人間だ。 社会や業界、会社の中に飲み込まれてしまうのは簡単だけれど、それでも「違うだろう」って思ったら立ち向かう。勇気と元気をもらった。
音楽をニュースにすると言うところで清志郎は
歌ったもの、歌ったことがニュースになるーそれがロックだったんじゃないかい?
と問いかけ今はコンサートに何人集まったとかアルバムが何枚売れたとか数字がニュースになり音楽そのものの話がまったく出てこないことを嘆いている。全く同感。そういった意味でも「君が代」でニュースになった清志郎は稀有な人だった。失ったものの大きさをまた実感した。
| 固定リンク
収録作品
パンドラの匣/トカトントン/ヴィヨンの妻/眉山/グッド・バイ
「パンドラの匣」は健康道場と称する結核療養所に入所している青年が友人に宛てた手紙の形式になっている。世話をしてくれる看護婦への恋心を交えながらも太宰の生死感も窺える。
人間は死に依って完成せられる。生きているうちは、みんな未完成だ。
人間には絶望という事はあり得ない。人間はしばしば希望にあざむかれるがしかし、また「絶望」という観念にも同様にあざむかれる事がある。人間は不幸のどん底につき落とされ、ころげ廻りながらも、いつかしら一縷の希望の糸を手さぐり捜し当てているものだ。
献身とは、わが身を、最も華やかに永遠に生かす事である。人間は、この純粋の献身に依ってのみ不滅である。
「トカトントン」は頭の中で常にトカトントンと音がする男の話。「ヴィヨンの妻」は酒飲みでどうしようもない男と妻の話。「眉山」は飲み屋の常連の客から眉山と呼ばれている女の子の話。「グッド・バイ」は未完で終わっているが男が正妻と偽って美人を連れて愛人に別れを告げに回る話。
どれもみんな男がだらしなくて情けない。それに対して女が強い。眉山は切ない終わり方だけれど、元気いっぱいの女の子だし、ヴィヨンの妻も意志のある凛とした女性、グッド・バイのキヌ子も身なりは汚くても輝くものがある。
ヴィヨンの妻は松たか子と浅野忠信主演で映画が10月に公開されるらしい。ぴったりのキャスティングだと思う。ヴィヨンの妻で興味深かったのは井の頭公園をあてもなく歩くところ。
池のはたの杉の木が、すっかり伐り払われて、何かこれから工事でもはじめられる土地みたいに、へんにむき出しの寒々とした感じで、昔とすっかり変っていました。
現在、井の頭公園の池の周りには桜の木が植えられている。その木も今はだいぶ老木となってきている。あの桜の木は太宰がヴィヨンの妻を書いた頃に植えられたものなのだろうかなどと思いを巡らせた。
| 固定リンク
手術前日に病室で読んだ一冊。
学生の岡田が主人公かと思ったら、いつの間にか高利貸し末造と妾のお玉の話に。それに「雁」も全然出てこない。後半に僕、岡田、お玉が繋がり「雁」が出てくる。この小説は途中で連載が中断されたそうだけれど、鷗外の頭の中には最初からこの結末が用意されていたのだろうか。
お玉は幼くして母を亡くし、貧しいながらも男手一つで大事に育てられる。孝行娘のお玉は父の生活が楽になるようにと末造の妾になる。しかし、家の前を通る学生岡田に惹かれ、ただ従順だったお玉が意志のある女性に成長していく。お玉がますます魅力的になるにつれ話に艶が出て面白くなってくる。
せっかくお玉が決心するのに偶然のいたずらでこの恋は切なく終わる。舞台が「青年」と同じ上野周辺なのがまた興味深く読めた。
| 固定リンク
個性的な男女5人の大学生活4年間を描いた青春小説。
でも単なる青春小説に終わらず連続強盗事件などが絡んで伊坂さんらしい作品。西嶋のキャラがすごくいい。不器用だけれど砂漠に雪を降らせるようなことも一生懸命やる男。一人が頑張っても無駄なようなことでも真剣にやる。でもそういうことが本当に世界平和に繋がっていくんだと思う。西嶋って恰好いい。他の4人もみんないい。重苦しい事件が起こったりもするけれど、最後は爽快な気分になった。
学生は小さな町に守られているんだよ。町の外には一面、砂漠が広がっているのに守られた町の中で暮らしている。
生きていくのは計算やチェックポイントの確認じゃなくて悶えて「分かんねえよ、どうなってんだよ。」と髪の毛をくしゃくしゃやりながら進んでいくことなのかもしれない。
本当にそうだなと思う。社会と砂漠は似ている。砂漠にずっといるのはきつい。私はオアシスのような人になりたい。
| 固定リンク
発売当初からチェックはしていたものの、今更「品格」読みました。図書館には10冊以上も用意してあるにも関わらず、何百人もの予約が入っていることもありました。そして発売から3年、やっと普通に借りられるようになりました。
なぜ多くの女性がこの本に殺到したのでしょう?書いてあることは当たり前のことばかり。挨拶をする、約束を守る、丁寧に話す、教養を身につける、などなど。いい大人がこんなことまで1から教えてもらわなければならないのかと思うとちょっと情けないです。でもそうでない人が多いからこの本がヒットしたのでしょうか。そうでなかった人がそうなったのならそれはそれで意味のあることなんでしょうけれど、世間は相変わらずのような気がします。
このようなHOW TO本を読むより素敵な女性が出てくる小説を1冊読むほうがずっと品格がある女性になれると思いました。
| 固定リンク
日本TVでかつて「野ブタ。をプロデュース」というドラマをやっていて、その中で清志郎は神出鬼没の謎の本屋のオヤジ役で出演していた。この本はあの本屋のオヤジが書いたんじゃないかと思ってしまうような小説のような随筆のような不思議な本。CD発禁のことや狂った社会への怒り、音楽への愛など、清志郎の正直でストレートでクールな言葉いっぱい。めちゃくちゃカッコいい。
文庫本のあとがきはガンから復活した後に書かれている。もうジョン・レノンも清志郎もいない。清志郎の理想郷「双六問屋」を瀕死にさせてたまるか!
政治家以外の人々は誰も戦争で死にたくなんかないんだよ。
本当に必要なものだけが荷物だ。
中身をみがく方が大切なことなんだよ。それは世界の平和の第一歩なんだよ。
俺は右でも左でもかまわないんだ。そんなことどーでもいいんだ。右にどんどん行ってみろ。やがて左側に来ているのさ。地球は丸いからね。
上っつらに惑わされるな。ブルースを忘れるな
この国の憲法第9条はまるでジョン・レノンの考え方みたいじゃないか?戦争を放棄して世界の平和のためにがんばるって言ってるんだぜ。俺たちはジョン・レノンみたいじゃないか。
メダカ日記:
今日も子メダカが2匹、死んでしまった。
| 固定リンク
福聚寺の副住職で芥川賞作家の玄侑さんのエッセイ集。
仕事を楽しむの章の中の「上機嫌な企業」というところで、企業も個人も目標を達成することが幸せと勘違いするから不幸なのであると書く。
幸せとは、何かを達成することで感じられるものではない。目標さえ忘れさせる道中の在り方が、人を幸せに運ぶのだ。
私は最近、鼻歌を奨励している。基本的に鼻歌は、生命体が上機嫌に自足している証拠である。
今日のほぼ日「今日のダーリン」にも同じようなことが書いてあった。
目的地までの旅そのものも目的に含まれる。旅にも言えるし、仕事にも言えるのですが。目的という名の目的は、たしかにあるんだけれど、そこに向かっているうちに、じぶんやじぶんたちが、変化したり育ったりしていることも、とても大事な「おたのしみ」なんですよね。
ほぼ同じ時期に同じような言葉に出会った。私も旅は目的地にこだわらずに旅をするのが好きだ。風の向くまま気の向くままの旅。だから途中で起こるアクシデントさえ楽しむことができた。でも人生の旅となるとなかなかそうもいかない。何かを達成することに精一杯になっていた気がする。もっと道中を楽しむ余裕を持って生きたいものだ。
| 固定リンク
スヌーピーたちの人生案内 チャールズ・M・シュルツ
訳:谷川俊太郎
スヌーピーの漫画の中で生きるヒントになる一コマを集めたこの本。でもできれば漫画の中でお話の流れの中で出会いたい言葉たち。
我が家は父が厳しくて自宅に漫画の持ち込みが禁止されていた。まぁ、兄も私もこっそり持ち込んではいたんだけれど・・・唯一大手を振って持ち込めたのがピーナッツの漫画。英語の勉強になるっていうのが理由。この歳になれば、そういった読み方も出来るでしょうが、当時はただただ大好きなスヌーピーの漫画が読みたかっただけ。
私が小学生の頃はサンリオ商品がすごい人気でキティちゃんやパティ&ジミーなんてキャラクターがいっぱいあった。その中でスヌーピーだけがキャラクターとしてだけでなく、もっと深いものとして存在していた。
どこか納戸の奥にでもしまいこんである漫画探してみよう。子どもの頃には気がつかなかったこといっぱい見つかりそうだ。
| 固定リンク
鈴木惣一朗が聞き手となり細野さんの今この時を記録したような本。いろんな物や物事に対してどう思うか、難しいことも日常のことも同じレベルで正直な言葉で語られている。
私が好きな話はお父さんが亡くなるときの話。悪い意味じゃなくて良かった、めでたいって思えたという。父親との関係はうまくいっていると思っていなかった細野さんがお父さんの頭をおそるおそるなでてあげたというエピソードもいいな。
本文では「ラブソングは作らない」と言っておきながら1年後のあとがきではラブソングを作っている。40歳、50歳なんて、まだ若い。固まったと思ってても、やっぱり何かが変わるんだよ。・・・いろんな体験をしてきたつもりだったのに、「こんなこと初めてだ」ということが60歳になるとまた起こりはじめる。わかっていることは何もないんだってのが今の正直な感想だね。
歳を重ねていろんな経験して、考えもやることもどんどん変化してそれでいいんだ。変につじつま合わせがしていなくて最後のページでのどんでん返しが妙に心地良かった。
| 固定リンク
「こうあるべき」「こうしたい」そういう考えに執着するから苦しくなる。自分を不自由にしているのは自分自身。「ほんとはドッチデモイイんだ」と執着を少なくして「自分濃度」を薄めることが自分を自由にする。
感情をコントロールできない私は執着の塊。
かけがえのない自分なるものしょせんは数多の凡人のうちの一人。実は赤の他人のように見てしまうことによってこそ上手にコントロールできるにあらめ。
相手に怒りをぶつけたり、何かを求めたりするでもなくさらりとかわし、沈黙を選ぶ。筆者はそれにはお嬢様ことばを勧めている。「ええ」、「まあ」、「さようでございますか」、「さようですか」。それって一理あると思う。ヘタにお嬢様言葉を使うと嫌味になるけれど、乱暴な言葉よりも丁寧な言葉って基本的には腹が立たない。私なんて日常でも一言多かったり、言い方が悪くて相手を苛立たせたりなんてことばかりだ。
私はどうも白黒はっきりさせたい性格。「正しい」って事にもこだわってしまう。正しさの猥褻さということで耳の痛い言葉があった。
正しいことを己の心の中に持ち、それによって己をストイックかつ美しく調律してゆくことと、それをわざわざ言葉にして他人にぶつける不純さの間には天と地ほどの差。
「相手に変わってほしい」と思うのは欲と怒りの心ですから、その雰囲気=波動をぶつけることで、相手はよけい頑なになって変わらなくなります。・・・・・相手を変えようともがけばもがくほど、関係が悪化して自分が損をするだけなのであります。反対に、この猥褻な欲望を捨てて候へば相手が変わってくれる可能性もあり。自分をイライラさせてしまう他人が周りにいるのは自分自身のせい。
相手を変えよなんて簡単にできるわけないし、そんな傲慢なこと考えるほうが間違いだった。まずは自分が変わること。私が変わること。これがまた簡単なことじゃないんだけれど現在努力中。
どんなに相手が大切であってもダメになったらダメで仕方ないや、くらいの軽い感覚。「ドウデモイイヤ!」は投げやりに思うことではなく「どうなっても最終的には受け入れられるよ」てふ潔さ。
| 固定リンク
バスケットに入れられた毛布と一緒にいろいろな家に2泊3日でレンタルされる猫たち。ブランケット・キャッツとそのレンタル先での人達との甘く切ない7つ短編小説。
どこかに悲しみや苦悩を抱える人達のところへレンタルされいく猫たち。レンタルドッグのほうが現実味がありそうだけれど、この猫というのがポイント。猫って犬より感情をあまり出さないから哲学者っぽくみえるじゃない。
よく、「動物はしゃべらないから可哀想、何か言ってくれればいいのに」って言う人がいるけれど、しゃべらないからいいんだし、可愛いと思うんだよね。これがしゃべってごらん。レンタル猫なんて人の家の秘密絶対しゃべっていると思うもん。
ブランケット・キャットをレンタルをした人たちはたった2泊3日一緒に過ごすことで何かが変わっていく。たった2泊3日で。動物を飼えば10年とかの年月を一緒に過ごすことになる。そう思うと動物を飼うってとっても大きなことだ。私のことで言えば、1匹の黒猫と出会ったことでその後の人生が大きく変わってしまったわけだけれど、それほどの力を動物は持っているんだよね。
私は7つの中で「ふしあわせ」と名付けられた黒猫の「助手席に座るブランケット・キャット」、悲しい過去を持つ偏屈爺さんの「嫌われ者のブランケット・キャット」、唯一猫の立場で描かれた冒険物語「旅に出たブランケット・キャット」の話が好きだ。
| 固定リンク
「くまのプーさん」や子どもがはじめてであう絵本の「うさ子ちゃんシリーズ」などを翻訳した石井さんの自伝的小説。
主人公、明子の結婚前後の数年をともに過ごした大学の先輩蕗子との出会いから別れ、そしてその数十年後が綴られている。
この作品を読んで感じたのはやはり言葉がきれいだということ。学生の頃私は母に「あなたの言葉は乱暴だ」と言われたことがある。当時は聞き流していたけれど、今度は私が母親になると、娘の言葉遣いの乱暴さにはびっくりする。女性は言葉がきれいなほうが絶対にいい。最近とみにそう感じるようになった。実際、母の世代の言葉はよく知った間柄でもとても丁寧な言葉を使う。私も見習いたいと思う。この本の中に今の時代に失いかけている丁寧で柔らかい時間の流れを感じたのは言葉による力が大きいのかもしれない。
そしてもう一つ、大きなアイテムが手紙だ。二人は手紙をよく書く。手紙は書いて投函してと手間と時間がかかる。何でも楽に早くが良いことと思われがちだけれど、本当にそうだろうか。手紙を書くことはその時自分を取り巻いている空気だとか匂いだとか体温みたいなものも一緒に送れる。私もこのゆっくりとした思いを大切にしたい。
女の私から見て、時として男同士の友情が羨ましく思うときがある。男同士はお互いの環境が変わっても以前と変わらず少年同士の付き合いができる。女同士の場合、結婚したり子どもができたりすると、学生時代に仲良くしていても同じような境遇でないとどこか疎遠になってしまったりする。明子と蕗子を見ていると境遇なんて関係なく、女同士の友情というのもあるんじゃないかと思えてくる。
真面目な明子と自由奔放な蕗子、性格の違った二人はともに楽しい時間を過ごす。明子が結婚して夫に遠慮して会う回数が減っても手紙でやり取りをする。蕗子が結核で入院すると明子は自分の翻訳した原稿を持って蕗子に会いに行く。その原稿を蕗子は待ち望む。この原稿が後の「くまのプーさん」となる。そして蕗子は結核で亡くなってしまう。
友が亡くなって何十年と経っても「くまのプーさん」が重版されるたびに石井さんは友のことを思っただろう。そして吸い込まれるように友の家を訪れるきっかけとなった朱い烏瓜の実を見るたびに、あの時ほどの実はないと思い出したことだろう。男同士のような熱いつながりでなくとも、海の底にひっそりとたゆたうようなつながり、女同士ってそんなつながり方なのかもしれない。
| 固定リンク
収録作品: 独身/杯/牛鍋/電車の窓/木精/里芋の芽と不動の目/青年/桟橋/普請中/ル・パルナス・アンビユラン/花子/あそび/沈黙の塔
森鷗外と言えば10代の頃に国語の教科書で「高瀬舟」を読んだくらいである。宮本氏が精養軒の前で「青年」について語る動画でみて是非読んでみたいと思っていた。しかしページを開くと字は小さいうえに上下2段構え、私にとってはちょっとした挑戦だった。
「杯」では七人の女の子が大きな銀の杯で泉を飲んでいる。そこへ八人目の外国人の女の子が出てくる。この子は黒ずんだ小さい杯を持っている。女の子達が自分達の杯を貸そうと言うが、八人目の娘は「わたくしの杯は大きくはございません。それでもわたくしはわたくしの杯で戴きます」とフランス語で言う。この八人目の女の子の毅然とした態度がかっこいい。「杯」は自然主義が盛んだった当時、アンチテーゼ的作品と言われているようだけれど、散文詩的で幻想的な作品だと思った。鷗外は写真のせいかどことなくいかつい固いイメージがあったので、「杯」や「木精」などは意外な気がした
「青年」では上野、谷中あたりの地名が多く出てくる。首都圏の地図を引っ張り出して現在と比べこの小説が書かれた明治時代を想像してみる。「青年」では主人公純一と友人が上野の精養軒で食事をして、それから埼玉の大宮の氷川神社まで行く。現在の自分の行動半径と重なり意味もなく嬉しくなる。
ところどころにフランス語が出てくるし、ニイチエ、イブセンも出てきてやっぱり難しかった。
私なんぞは「普請中」で女がメロンの肉を剥がして食べるというところにこの時代に生ハム!?と変な感動をしてしまった。
「己なんぞも西洋の学問をした。でも己は不動の目玉は焼かねえ。ぽつぽつ遣つて行くのだ。里芋を選り分けるやうな工合に遣つていくのだ。」 里芋の芽と不動の目
| 固定リンク
1980年代、大学生だった頃を振り返る12の連作短編集。同じ時代を過ごした人には過ぎ去った時間が懐かしく思える作品だ。
雨の日のコインランドリー、初めて食べるブルーベリー味、女子学生と牛丼、できたばかりのディズニーランドと寂れた遊園地、レゲエのおじさんなどなど。
その時代のほんのわずかな時間を共有した人たち。その人たちがその後、どうなっているのかは分らない。主人公と同じように読者の私たちも思いをめぐらす。この小説と同じように私にもあの頃出会い、その後どうしているのか分らない人たちがいる。そんな人たちのことを思い出した。長く生きていくということは多くの人と出会うことでもある。これからだってまだまだたくさんの人との出会いがあり、何十年後かにはまた現在を懐かしく思い出す時がくるのだろう。その時、ふっと笑顔になれたらいい。
| 固定リンク
本を読むとき、気になった言葉などに付箋を貼ることにしている。そして全部読み終わった後に、その付箋のところをもう一度読み返し手帳にメモしている。
今朝、この本を図書館の返却ポストに入れようとしたらはがし忘れた付箋を発見。ポストの前でその付箋にメモする。
信頼とは賭けることです。裏切られてもいい。相手にされなくてもいい。結果がどうなろうと関係ない。覚悟をきめてなにかを、誰かを信頼する。
多くのことが不確かな今、私は子どもたちに賭けている。息子はもう一度高校へ行くと言ったものの、やっぱり学校は続けられないかもしれないという。体が拒否反応するようだ。娘は単願で私立高校に入学することになったけれど、「高校へ行きたくない。勉強したくない。」と言っている。なぜ、うちの子たちは多くの子が普通にできている学校へ行くということができないのか?そんなこともうどうでもいい。親である私はぐちゃぐちゃ考えずにただ子どもたちに賭けようと思う。
人間を関係する存在として見ていこう。そこをつなぐ心のシナプスを探そう。
と、この本は結ばれている。人間の関係ほど人を複雑にし悩ますものはない。ときには煩わしく思い、ときには生きる力となる。男女関係、親子関係、友人関係きっと太古の昔からさほど変わりはないのだろう。心のシナプスを探すのは大変なことだけれど、人間として生きていく以上シナプスを探し続けていくしかないのかもしれない。
| 固定リンク
「家庭の幸福は諸悪のもと」という太宰治の言葉で始まる。
対幻想論(男・女の間の心)と共同幻想論(集団の心)に関しては難しくて一読では理解できず、これはこれからの宿題に。
「家族のゆくえ」は人間の発達過程に沿って書かれている。特徴的でなるほどと思ったのはそれぞれの時期の間に移行期を設けていること。確かにこの移行期というのが重要かもしれない。
この本でも「幸福論」と同じく親の重要性が書かれている。特に母親に到ってはかなり責任重大。ダンナもよく「子ども達にとって所詮、主軸にあるのは母親なんだよな」って言うけれど、やっぱりそうなのだろうか。そんな重大な事とは考えずに母親になってしまったな。でも多くの人がそんなこと考えにずに母親になるわけで、それでもそこそこ子どもは育つ。
やはり、うちの子ども達が真っ只中の前思春期・思春期のところが一番気になった。
何か気のきいたことをいったりかまったりする必要はない。こうしろああしろという必要もない。ただ子供に目を注いでいること。
分っているけれど、それが難しい。本当は「大丈夫」と笑顔でいればきっと子どもも安心するのだと思う。でもついつい不安になって余計なことを言ってしまう。同じ何も言わないでも目を注いでいるのと目を背けるのとは違う。目を注ぐということはとても苦しいことだが、母親になった以上逃げられない。
| 固定リンク
老齢化社会の心構えとして
こきざみの幸福に気づき、短い周期で考える
ということが書いてあった。これは誰もが先の不安を抱えている現代において老齢期の人だけでなくあらゆる年代の人で言えることだと思った。
夫婦ふたりで生き死ぬということに関して
老夫婦の心中は理想的である。
子どもの犯罪はすべて親の責任である。
被害者、あるいは加害者の親であったらどうするかとういうこともかなり過激なことが書いてあった。
子殺しについて
とにかくどこかで踏みとどまって、これ以上お前は許せないというところまできてそうするという親がいたら、かなり育てたことに対する愛情というのに自信があるんだと思う。
なぜか死に関する記述に引き寄せられた。幸福論を語るとき死を語ることになるのか。
| 固定リンク
吉本氏は私の亡くなった父と年が近い。この本を読んでいて何度も父を思い出だし、もし今父が生きていたらどんな日々を過ごしていたのだろうかと考えた。
まだ経験したことのない「老い」とはどういうものなのだろう。読みながら一人暮らしをしている母の毎日も考えた。
吉本氏も足腰が弱くなり自転車に乗って出かけていたようだが、帰りは家族に迎えに来てもらったりしている。自転車でよく出かけていた父も生きていたらそうなっていたのだろうか。この間までなんでもなかったことがしんどくなってくるってどんな感じなんだろう。
上野についての記述も多く、それもまた面白かった。私も小さい頃よく上野に連れて行ってもらった。美術館、動物園、噴水の前で兄妹仲良く楽しそうに遊んでいる写真もある。学生時代、おしゃれな町吉祥寺の近くに住んでいたこともあって、どことなく上野が嫌いな時期もあった。地下鉄の天井は低いし、地下通路から地上に上がってくるとなんともいえない上野の臭いがしたものだ。決してキレイな町じゃなかった。
それが最近、宮本さんの影響かもしれないけれど、懐かしく心地よくなってきた。気負わず自然のままでいられる気がする。また上野の山を散歩したくなった。
| 固定リンク
一見ヘビーなタイトルの本だけれど、内容はゆる~い。
40代女、独身、親と同居、定職なし?、昼間から酒を飲む、著者の日常を書いたエッセイ。
おいおい、最初少し読んで読むのやめようかと思った。
私には著者と同じような生活している知人がいる。オマケに彼女、犬を傍らに酒を飲むところなんて本の表紙とそっくり。そんな生活ありなの?!って思っちゃうんだけれどそのゆるさ、自分には欠けている部分でもある。著者の場合はこのゆるい生活を明るく暴露して仕事に繋げちゃうわけでここまでいくと立派。
私の知人もどうやって生活しているのか?が謎だ。実はを物書き?とささやかれたこともある。彼女が北大路公子だったら・・・少なくともそれはないな。公子さん、北海道在住だもんと真剣に考えてしまった。
| 固定リンク
自転車で移動するのが好きだ。
10kmくらいの距離なら天気さえよければためらいなく
自転車で出かける。
基本的に自分で動かす乗り物が好きなのかもしれない。
車もバイクも好きだけれど、
車の運転テクニックは初心者並みだし、
バイクも免許は取ったものの立ちゴケばかりして今は乗っていない。
自転車はいい。環境に優しいし、健康にもいい。
フィットネスクラブでエアロバイクに乗ったり、
交通費のことを考えれば家計にも優しい。
この本の中では等身大の良さ、身の丈で、という言葉を使っている。
自転車は自分の体が動かしたスピードで動かした分だけ進む。
エンジンは自分。自力のみだ。
時に孤独だったりするけれど心地よくもある。
自転車は飛行機よりも偉大な発明だと思う。
実は私が自転車に乗れるようになったのは小学校6年生のときで
かなり遅かった。
それまではいつも友達の後ろに乗せてもらっていた。
それがいつから自転車が好きになったのだろう。
気がつくと高校への通学、犬の散歩、ダンナと恋人だった頃の二人乗り、
子どもの保育園の送り迎えと日常生活でなくてはならないものになっていた。
私の父も自転車が好きで倒れる間際まで画材をもってスケッチに出かけていた。
倒れて起き上がれなくなっても
「自転車のところまで行けたら自転車に乗れるのに」と
言っていたほどだ。
その父が最後に乗っていた自転車は今も買い物用として大事に乗っている。
もう10年以上経っているかもしれない。
先日その自転車に乗っていた息子が無灯火でお巡りさんに呼び止められたらしい。防犯登録を調べたところ別の人の名義になっていたと言う。
自転車ってみんなそんなに長く乗らないのか?
確かに容姿が怪しいし、無灯火はいけない。
でもそりゃないでしょ。ちゃんと先に防犯登録しているのに!
親子三代で乗っている由緒正しい自転車です。
盗難車と間違わないでください。
自転車をめぐる冒険はまだ続いている。
| 固定リンク
田舎暮らしに殺されない法 丸山健二
子どもが巣立って老後の資金も貯まったら
いつかは煩わしい人間関係やらから逃れて
自然の中でのんびり田舎暮らしをしたい
と考えている人が増えているようだ。
私もそんな暮らしを夢みるひとり。
だけど田舎暮らしはそんなに甘いもんじゃないよと警告する本書。
「自然が美しい」とは「生活環境が厳しい」と同義
まとまった雨が降れば道路が土砂に埋まってブルドーザーが出動するだとか、
田舎は「犯罪」の巣窟
都会からの移住者は狙われ、もし狙われたら自分の身は自分で守る
殺すか殺されるかの覚悟が必要だとか、
田舎に「プライバシー」は存在しない
冠婚葬祭、選挙などの田舎的付き合い、
それ以外でものべつ監視されている状況におかれるとか、
散々ネガティブな事が書かれている。
この本を読むと田舎暮らしに夢を抱くのではなく覚悟が必要なんだと思う。
自然災害、犯罪は覚悟できても最後の付き合いの覚悟はなかなかできないな。
真綿で首を締められるような状況はイヤ。
晩年はハイジのおじいさんのように生きたいものだ。
| 固定リンク
ニュートン、ダーウィン、ノーベル、アインシュタインなど
科学者の育った家庭、恋愛、科学者同士の付き合いなどが
ワイドショー的のりで描かれたちょっと変わった偉人伝。
著者の科学者への愛情が感じられて読んでいて楽しかった。
偉大なことを成し遂げた影には人間臭いところもあって、でも魅力的な人たち。
この間ノーベル賞をとった3人の先生もそれぞれ個性的で魅力的だった。
少し前にノーベル賞とオリンピックの金メダル、どちらを子どもに取って欲しいか?
というアンケートで、若干オリンピックの方が多かったよう。
やっぱり生きている間に子どもの成功を見たいっていう気持ちも分るけれど
賞をもらうために頑張るんじゃなくて、自分が一生懸命取り組んできた結果として
もらえる賞っていいなって思う。
ちなみに私は立派なファラデーさんと変わり者の南方熊楠さんが好き。
| 固定リンク
「ひとかげ」はかつての作品「とかげ」のリメイク。
後ろに「とかげ」も収録されていて読み比べることができる。
私は断然「ひとかげ」の方が好き。なんとなく優しい。
それはふたりの言葉で語られる母親の存在が大きいからではないかと思う。
「とかげ」ではとかげ自身が時間の中で自分の犯した罪に気付くのだけれど、
「ひとかげ」では母の言葉によって気付くのだ。
母は怖い思いをして恐怖の殻に閉じこもるが、その殻を破り
犯人を許し、力強く生きていく。
また交際相手である僕の母親もつらい目に遭いながらも
子どもを守り必死に生きようとする。
母の愛と強さがこの作品を暖かくしているように思えた。
そして罪を償うということを考えた。
法を犯せば法によって罰せられ罪を償う。
いや、法で罰せられたからといって罪を償ったわけではない。償いは続くのだ。
ではどうしたら罪を犯した者、被害にあった者の心は安らぐのか?
私にはとかげのような力はないけれど
とかげのように憎むことでつらさから逃げようとしたことがある。
また逆に多くの法で罰せられない罪も犯してきた。
人はつらい目に遭うと誰かのせいにして
誰かを責めることによって自らを救おうとする。
それが一番簡単な方法なのかもしれない。
でも本当の救いはとかげの母のように許すことでしか得られないのではないか。
罪を犯したら相手に許しを請う。相手がいない場合はどうか?
それでも許しを請い続け、罪を背負って生きていかなければならないのだ。
| 固定リンク
今日は曇り空。午前中そうそうに家事を済ませ
午後はコタツにもぐって読書に耽る。
今度映画化される伊坂さんの「重力ピエロ」。
一足先に読んだ娘も絶賛していて、映画を見る前に是非
読んでおかなければと思っていた。
一言で言って、面白かったー。
「本当に深刻なことは、陽気に伝えるべきなんだよ。
重いものを背負いながらタップを踏むように」
人それぞれ生きていれば背負うものも増えてくる。
みんな重力を感じて生きている。
年を重ねるほど重力を感じるようになるって言う。
でも、子どもだって重力は感じているのだ。もしかしたら大人以上に。
泉水の言葉を使わせてもらうなら、
「重量は放っておいても働いてくる。
それならば、唯一の母親である私はその重力に逆らってみせるべきではないか」
「人を救うのは気休めの美味い料理」
その言葉を胸に明日も台所に立とう。
| 固定リンク